オム・ファタール キルズ ミー


 市川、頼むから精神科医にはならないでくれ。 
 俺と市川が研修医として世話になった基幹病院の指導医たちのうち、誰かひとりはそう言うんじゃないか。六年間の医学生生活だけでも、奴はキャンパスの片隅で、インカレテニスサークルの練習所で、バイト先の塾で、老若男女問わず誰かを見初めては、いつも最終的に彼ら彼女らを精神的屍へと変貌させてきた。その一端がついぞ誰かに見抜かれるのでは。俺はそれを半ば期待して、同時に半ばあり得ないだろうと思っていた。奴が立ち去る場の濁りを残らず攫っていたのは俺自身だったから。
 アルコールを含んだ空気が循環する清潔な白亜の病院の中で、市川はその本性を完璧に隠していた。
「市川先生といるの、大変じゃない?」
 市川の完璧な化けの皮の下から漂う腐臭に気が付いたのは、精神科病棟の看護師長だけだった。いつのことだったか。彼女からふいにそう問われた俺は思わず笑みをこぼした。その姿を見て、師長は職能に由来する温かい気遣いの気配をぷつりと絶ってみせた。ああ、君もそっち側か。そんな失望の声が聴こえた気がした。しかしその後も、表向き俺らへの接し方を変えなかった彼女のことを俺はひそかに尊敬している。

 都会の喧騒を濾過したような静寂が沈むバーのカウンターで、俺はバーボンのグラスを傾けていた。隣で市川が、カラン、と意味もなくマドラーでグラスの氷を鳴らす。照明を反射する濡れた黒髪、陶器のように滑らかな肌、伏せられた長い睫毛。その造形は、神の悪趣味な傑作と呼ぶにふさわしかった。精神科医として独り立ちして幾ばくかの年月が経った今も、奴のその貌は若い溌剌さを失って色褪せるどころか、年齢という名の研磨剤でさらに危険な光沢を増している。この輝かしさを奴は患者の前ではひた隠しにしているという。そんなことが可能なのかと、本人を目の前にすると驚嘆せずにはいられない。
「そういえば数学科の彼、どうしてる? 俺の予想だと、エスタゾラムを2mgにできたころかなって思うんだけど」
 唐突に市川がこちらを見ずに言った。声は常のように滑らかで、純粋な好奇心だけが乗っている。その無邪気さこそが、奴の罪の本質だった。見立ては外れていない。しかし答えるのは癪なので黙殺する。
「もう診察時にお前の名前が出てくることはなくなってきたな」
「それは残念。俺の名前を呼びながら、めちゃくちゃに泣くのがあの子の一番美しい瞬間だったのに」
 心底がっかりしたように市川は溜め息をつく。俺は返事をせず、琥珀色の液体を喉に流し込んだ。喉が焼ける。市川が壊した人間たちの面倒を見るのは、精神科医としての業務一環でも、知人としての責任感でもではない。単なる趣味だ。壊れた人間が、ゆっくりと自己を再構築していく過程を眺めるのは、寄木細工が作り上げられてゆく工程を見ているようで飽きない。市川が提供する素材はどれも一級品で、誰も彼も本来、市川という美しく歪な部品を必要としない人間ばかりだった。
「俺は強く、善くあろうとする人間が好きなんだ」
 市川は自分の指についた水滴を舐めとりながら、呟いた。
「完璧であろうと取り繕う人間が不意に感情を突き破られて、ぐちゃぐちゃになる瞬間が見たい。それを許して、許して、許す。どんどんと相手は俺にすべてを明け渡してくれる」
「――心も身体もすべて、か?」
 俺はグラスを置いた。グラスの縁についた水滴が、コースターに染みを作っていく。市川が愉快そうに「宇田は古風な言い回しをするねえ」と笑う。
「俺は興味を持った人間と可能な限りコミュニケートしたいんだ」
 市川はそう言って面白そうに口の端を上げた。その視線が、俺の顔のパーツ一つ一つを検分するように動く。俺という人間の奥に分け入り、理解しようとする実直な精神科医の目をしていた。
「セックスがそれの最たるものだとか考えているなら、精神科医としては0点以下だな」
 俺が投げかけた鋭い視線を、なんてことのないように市川は受け流す。
「だから俺はいつも、患者や仕事仲間とは無関係の人間を選んでるじゃない。――あれはいいよ。言葉よりも雄弁で、暴力よりも直接的だ。相手の最も柔らかい部分に、俺という存在を刻みつけることができる。最高純度のコミュニケーションだ」
「……お前はそうやって、相手に付いた傷から流れ出る感情を啜って生きている。まるで吸血鬼だな」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
 市川は楽しげに笑い、バーテンダーに次の酒を注文した。その横顔を眺めながら、俺は乾いたグラスの底を見つめていた。そうだ、こいつはいつだってこうだ。決して満たされることのない渇きを抱えて、他人の心という荒野を彷徨っている。そして俺はその後ろをついて歩き、奴が残した骸を拾い集め水を与え、行く先を指し示す。奴のいない方を。
 沈黙が続いた。氷の溶ける微かな音だけが、二人の間に漂う。何かを終わらせるか、あるいは始めるために、俺は口を開いた。
「お前はどうして、今になって俺の恋人に手を出した?」
 バーの空気が張り詰める。市川はゆっくりとこちらに顔を向けた。その瞳の奥に、昏い光が宿っている。
「俺が見てきた人間の中で、群を抜いて強くて善い人だったからだよ」
 その声には、剥き出しの悪意と、子供じみた喜びが混じっていた。
「少し時間はかかったけれど、随分と綺麗な音を立てて壊れたね。俺の腕の中で、俺の名前を呼びながらむせびなく姿は本当に良かった」
 頭のどこかが妙に冷静になっていく。あの時、泣きながら俺にすべてを告白した彼女の顔が、市川の言葉と重なって像を結ぶ。あの絶望。あの混乱。市川が見たかったのは、きっとあの顔だ。だが、本当に見たかったのは。
「お前が本当に壊したかったのは俺だろう」
 市川が軽く噴き出す。「とんだ自惚れだね」そして俺の顔を覗き込んだ。
「俺は宇田のことを結構気に入っているけど、それは俺の落穂拾いをする趣味の悪さに対してだけだよ」
 でも、そうだな、と市川は思いついた、というように問いかける。
「自分の女が自分から過失を引き起こしたくせに、それを理由に自分の前から逃げだしていった感想は?」
 下卑た問いかけを口にしたにもかかわらず、市川の貌はやはり美しい。そこには獲物が絶命する瞬間を期待する捕食者の気配があった。
 ――だが、残念ながらその期待は外れだ。生涯の伴侶にと考えていた相手を失っても俺は壊れなかった。
「彼女の気が晴れるならそれでいい」
 俺の声は、自分でも驚くほど平坦だった。市川の美しい顔が、失望と苛立ちに歪む。
「……なんだよ、それ。怒るか憎むかくらいしてみなよ。つまらない男だなあ」
「お前のしたことは、俺の想像の範疇のことにすぎない」
 俺は静かに続けた。
「俺はお前を赦せる。簡単なことだ」
 市川の顔から人間らしい感情が抜け落ちる。怒りで我を忘れた瞬間の人間は必ずこうなる。俺はスツールを立ち、市川のすぐ隣に立ちはだかった。身じろぎする間も与えず、奴の顎に手をかける。怒りに見開かれた黒い瞳が、間近で俺を映している。しかし抵抗はない。
「もしお前が、俺からの赦しが欲しいなら――」
 俺は、囁くように言った。
「キスをしろ。彼女にしたのと同じように、俺を壊すつもりで、お前の言う『最高純度のコミュニケーション』とやらを、俺にしてみせろ」
 市川。お前が振りまいてきた破滅の味を、お前自身の唇で味わえ。俺はお前の唯一の観客で、共犯者で、そして断頭台だ。
 市川の唇がわずかに震える。それは憎悪か、恐怖か、それとも歓喜か。奴の貌がゆっくりと、俺に近づいてきた。
〈了〉

・2025/9/30 初出 カクヨム 【書き下ろし】お題:オム・ファタール(https://kakuyomu.jp/user_events/16818792439712935477)参加作
・2025/10/17 改稿